おぼろな…

 @ 皇室とわたし

 A あの時、何が
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 ├ 平成皇室年表
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 └ ひとつの推察

 B 聖性のありか
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 └ あべこべの世

 C 素朴な疑心
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 ├ 託したいもの
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 └ 囚われ人たち

 D 皇統と未来
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 └ みなに笑顔を

 

平成皇室年表

(引用元:「皇太子と雅子妃の運命 平成皇室大論争(文芸春秋)」 p.243〜251)
 ▽平成8(1996)年から  ▽平成12(2000)年から  ▽平成16(2004)年から 
時期 出来事
昭和64(1989)年
1月7日 昭和天皇崩御。継宮明仁親王即位。元号は「平成」
平成元(1989)年
9月12日 礼宮文仁親王、川嶋紀子さんとの婚約が皇室会議で決定。同日に記者会見。礼宮「私のほうが先になってしまった」
平成2(1990)年
6月29日 礼宮文仁親王・紀子妃、結婚の儀。新宮家を創設し、宮号は「秋篠宮」に
11月12日 即位の礼。正殿の儀おことばで「日本国憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓」うと述べられる
平成3(1991)年
7月10日 天皇皇后、雲仙普賢岳噴火被災地へ。体育館の床に膝をついて避難民を見舞う
10月23日 秋篠宮の第一女子、眞子内親王誕生
平成5(1993)年
1月19日 浩宮徳仁親王、小和田雅子さんとの婚約が皇室会議で正式決定。同日に記者会見
皇太子「ぼくが一生、お守りしますから」
雅子さん「私の果たすべき役割は、殿下からのお申し出をお受けして、皇室という新しい道で自分を役立てること」
6月9日 皇太子・雅子妃結婚の儀
10月20日 皇后、誕生日の朝に倒れ、失声症に(回復時期:硫黄島、小笠原訪問まで)
平成6(1994)年
11月5日 皇太子夫妻初の海外訪問へ。サウジアラビア、オマーン、カタール、バーレーン
12月29日 秋篠宮第二女子、佳子内親王誕生
平成7(1995)年
1月20日 皇太子夫妻、クウェート、アラブ首長国連邦、ヨルダン訪問。阪神大震災直後のため2日早く帰国
1月31日 天皇皇后、阪神大震災被災地を見舞う
平成8(1996)年
2月22日 皇太子誕生日に夫妻で会見
皇太子「コウノトリは静かな環境を好むと申します」
雅子妃「(結婚前の)仕事は年の浅いものでございました。皇室に入る以前の生活、経験から得られたことが何らかの助けになってくれれば」
12月6日 雅子妃33歳の誕生日にむけ初の単独会見「脳内モルヒネというものが出てるのか、鬱状態ではありません」。この頃海外誌で「消えたプリンセス」「沈黙する悲しみの妃」などの記事が続出していた。
平成10(1998)年
9月21日 皇后、第26回国際児童図書評議会(IBBY)ニューデリー大会でビデオによる基調講演「子供の本を通しての平和──子供時代の読書の思い出──」。NHKでも放映され、『橋をかける』にまとめられた
12月4日 雅子妃誕生日会見「夫婦ゲンカの種は犬が拾って食べてくれる」「自分たちらしさと皇室の伝統のバランスを考えたい」
平成11(1999)年
2月8日 皇太子夫妻、ヨルダン国王葬儀に参列
2月15日 皇太子39歳の誕生日会見「夫婦一緒に共働きしているので、お互い話しあう時間を大事にしている」
12月4日 皇太子夫妻、ベルギー皇太子結婚式に参列
12月10日 雅子妃「懐妊の兆候」を朝日新聞がスクープ。12月30日に稽留流産と発表された
平成12(2000)年
2月21日 皇太子誕生日会見「医学的な診断の前に、個人のプライバシーの領域、事実ではないことが大々的に報じられたのは遺憾」
7月25日 香淳皇后(皇太后良子)の本葬にあたる「斂葬の儀」。雅子妃は「風邪のようなもの」で欠席と東宮大夫が発表し波紋を呼ぶ
10月20日 皇后誕生日文書「流産は、たとえ他に何人の子どもがあったとしても悲しいものであり、初めての懐妊でそれを味わった東宮妃の気持ちには、外からは測り知れぬものがあったと思います」
12月7日 雅子妃誕生日会見「非常に早い段階から報道が過熱してしまったということについて、正直申しまして戸惑いを覚えたことも事実でございます」
平成13(2001)年
3月 堤治東大教授が東宮職御用掛に就任。坂本正一御用掛退任
4月16日 宮内庁、雅子妃の「懐妊の可能性」発表
5月 小泉首相、皇室典範改正に言及
12月1日 敬宮愛子内親王誕生
平成14(2002)年
4月2日 皇太子夫妻会見。雅子妃「生まれてきてくれてありがとうという気持ちになりました」「母親になって涙もろくなって」
8月 天皇家、皇太子家、秋篠宮家がそろって須崎御用邸で静養
12月4日 秋篠宮会見「(第三子について)子供たちが妹なり弟なりの世話をしてあげたいという気持ちがあるようです」
12月5日 皇太子夫妻、ニュージーランド、オーストラリア訪問を前に会見。雅子妃「6年間の間、外国訪問をすることがなかなか難しいという状況は、正直申しまして適応することになかなか大きな努力が要った」
12月28日 天皇の前立腺ガン公表。金澤一郎医務主管「陛下はサイエンティストですから、きちんと受け止めていただいた」。翌年1月、東大病院にて手術
平成15(2003)年
12月4日 雅子妃、帯状疱疹で宮内庁病院に入院
12月11日 湯浅利夫宮内庁長官「秋篠宮家に第三子をのぞみたい」と発言
12月12日 宮内庁東宮職、雅子妃が春ごろまで公務を休むと発表
平成16(2004)年
1月 雅子妃、所感発表「もとの元気な自分を取り戻したうえで、なるべく早く公務に復帰して務めを果たすことができるよう努力したいと思います」
3月25日 雅子妃、軽井沢の小和田家別荘で静養(〜4月26日)
5月10日 皇太子、訪欧前の会見で「雅子のキャリアとそれに基づく人格を否定する動きがあったのも事実です」(天皇「国民に説明を」と求められる)
6月8日 皇太子、説明文書を発表「具体的内容について、対象を特定して公表することが有益と思わない。外国訪問やお世継ぎ問題に注目されているが、伝統やしきたり、プレスへの対応等々、皇室の環境に適応しようとしてきた過程でも、大変な努力が必要」
6月14日 宮内庁会見。天皇「報道の多くが家族の中の問題にかかわる憶測であるならば、いちいち釈明することが国のためになるとは思われない」とのおことば
7月30日 雅子妃に「適応障害」という医師団の診断が発表される(ストレス要因:林田東宮大夫の会見記事確認)
10月20日 皇后、古希を迎えて誕生日文書「家を離れる日の朝、父は『陛下と東宮様のみ心にそって生きるように』と言い、母は黙って抱きしめてくれました」「(雅子妃について)家族の中に苦しんでいる人があることは、家族全員の悲しみ」「宮内庁にも常に努力が求められますが、昨今のように、ただひたすらに誹られるべきところでは決してない」
11月14日 紀宮清子内親王、黒田慶樹さんとの婚約内定を朝日新聞がスクープ。秋篠宮の同級生との結婚
11月25日 秋篠宮誕生日会見「(皇太子の人格否定発言は)陛下に相談しての発言であるべきだった」「東宮御所での生活にともなう困難は、聞いてみたがよくわからない」「公務は受身のもの」「(長官第三子発言は)皇室の繁栄と、秋篠宮一家の繁栄を考えたもの」
12月23日 天皇誕生日文書「皇太子の記者会見の発言を契機として事実に基づかない言論も行われ、心の沈む日も多くありました」
12月27日 「皇室典範に関する有識者会議」、小泉純一郎首相の私的諮問機関として発足
平成17(2005)年
6月27日 天皇皇后、戦後60年にあたりサイパン島へ慰霊訪問
11月15日 紀宮・黒田慶樹さん結婚
11月24日 「皇室典範有識者会議」が報告書を提出。女性天皇・女系天皇を容認し、皇位継承順位は第一子優先。女性宮家の創設を認めるという内容
12月 雅子妃の病状について、東宮職医師団の見解
平成18(2006)年
1月 歌会始。秋篠宮「人々が笑みを湛えて見送りしこふのとり今空に羽ばたく」
紀子妃「飛びたちて大空にまふこふのとり仰ぎてをれば笑み栄えくる」
2月7日 NHKが紀子妃懐妊速報。国会で小泉首相驚く
8月17日 皇太子一家、オランダで静養(〜31日)
9月6日 秋篠宮家に悠仁親王誕生。皇位継承順位第3位、41年ぶりの男性皇族となる。
秋篠宮が「東宮さまに遠慮してきたがお許しがあったので……」と朝日新聞の岩井氏が報じる
12月20日 天皇誕生日会見「残念なことは、愛子は幼稚園生活を始めたばかりで、風邪を引くことも多く、私どもと会う機会が少ないことです。いずれは会う機会も増えて、うち解けて話をするようになることを楽しみにしています」
平成19(2007)年
2月21日 皇太子誕生日会見「愛子が両陛下に会う機会を増やしたい」
3月6日 皇后、腸壁からの出血で静養。金澤医務主管「原因は雑誌報道にあるのでは」
3月8日 羽毛田宮内庁長官「週刊誌の記事というより、その背景。皇室の中にはここ数年、両陛下をお悩めするような課題が多く、天皇陛下や、陛下をお支えする皇后さまも心を痛められている」
5月14日 天皇、欧州訪問前会見「私どもが私的に外国を訪問したことは一度もありません」
6月6日 皇太子、十二指腸ポリープの切除手術を受ける
12月20日 天皇誕生日会見「(5月の会見について)皇太子一家のオランダ静養に苦言を呈したのではありません」「私の意図と全く違ったような解釈が行われる懸念があり、これ以上の答えは控えたく思います」
平成20(2008)年
2月13日 羽毛田長官「愛子さまの参内が依然増えていない。皇太子殿下はご自身のご発言を大切になさっていただければと思う」
2月21日 皇太子誕生日会見「御所に参内する頻度についてもできる限り心掛けてまいりたい。家族のプライベートな事柄ですので、これ以上立ち入ってお話しをするのは差し控えたい」
2月25日 宮内庁、天皇が「ホルモン治療の影響で骨粗鬆症に移行するおそれ」があり、公務や宮中祭祀の軽減を検討
12月3日 宮内庁、不整脈の症状などで天皇の公務とりやめを発表。金澤一郎皇室医務主管「ご心痛に耐えていらっしゃるのが大きな問題」
12月9日 羽毛田信吾宮内庁長官「私的な所見」として「将来にわたる皇統の問題を始め、皇室にかかわる諸々の問題を憂慮されている」
同日、雅子妃誕生日。東宮職医師団の見解「(治療の長期化について)それだけ妃殿下の受けられたストレスが大きいものであったということであり、治療、即ちストレスの軽減に時間がかかる状態」
12月23日 天皇誕生日、会見をとりやめ文書に
平成21(2009)年
1月7日 雅子妃「昭和天皇二十年式年祭にて5年ぶりに宮中祭祀に復帰
4月8日 天皇皇后ご成婚50年の会見
天皇「(プロポーズの言葉について)私が皇太子としての務めを果たしていく上で、その務めを理解し、支えてくれる人がどうしても必要であることを話しました」
皇后「(皇室の伝統について)伝統と共に生きるということは、時に大変なことでもありますが、伝統があるために、国や社会や家が、どれだけ力強く、豊かになれているかということに気付かされることがあります。一方で型のみで残った伝統が、社会の進展を阻んだり、伝統という名の下で、古い慣習が人々を苦しめていることもあり、この言葉が安易に使われることは好ましく思いません」
11月6日 即位20年の会見
天皇「皇位継承の制度にかかわることについては、国会の議論にゆだねるべきであると思いますが、将来の皇室の在り方については、皇太子とそれを支える秋篠宮の考えが尊重されることが重要と思います」
11月25日 秋篠宮誕生日会見「国費負担という点から見ますと、皇族の数が少ないというのは、私は決して悪いことではないというふうに思います」
12月23日 天皇誕生日感想「4月の結婚50年に際して、また、11月の即位20年に際して、多くの人々から祝意を寄せられたことに深く感謝の意を表します」


 ※以上、平成皇室の年表を書くに当たり、主観を排し、中立性・客観性を担保する必要があると考え、 文芸新書の「皇太子と雅子妃の運命 平成皇室大論争(文芸春秋)」 p.243〜251より、当該年表の全文を転載・引用させて頂きました。
 このページだけですと、著作権法に抵触しそうですが、サイト全体の考察(主)の中の一引用資料(従)として、大目に見て下さると幸いです。 なおHTMLでテーブル化するに当たり、元の縦書きから横書きにしたり、見やすく構成を変えてあります。

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