おぼろな…

 @ 皇室とわたし

 A あの時、何が
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 ├ 平成皇室年表
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 └ ひとつの推察

 B 聖性のありか
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 └ あべこべの世

 C 素朴な疑心
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 ├ 託したいもの
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 └ 囚われ人たち

 D 皇統と未来
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 └ みなに笑顔を

 

皇室とわたし

2015.04.04

 「皇室」というと、私にとって、とても遠い存在です。 ほとんど自分とは関係ない世界。だけど日本の"ロイヤルファミリー"として、 その姿を折に触れて見るうち、 ぼんやりと敬意の念は湧いていました。 特に皇太子に雅子様が嫁がれた時、なぜか私も、日本人として新鮮な誇りを感じたのです。

 同時に、それは牢獄のようだとも思いました。例えば皇太子殿下、私は「浩宮様(ひろのみやさま)」と呼んでいましたが、 その周囲にはいつも御付の人々が大勢いて、どこへ行くにも監視の目があります。 あの中で生きていくには、並外れた忍耐力が居るだろう、私にはとても耐えられない。 そう時に自分に当てはめて、同情や畏敬や哀切の入り混じった、複雑な感情を持ったのです。

 「天皇」という役回りをさせられる。逃げることも出来ない。そんな運命を強制された、日本で唯一の人、一家。 恐怖です。自殺も出来ない。 皇太子は少年時代から凄まじい葛藤と戦って、ついに受け容れ、「天皇」になることを覚悟する。

 「自分でなくて良かった」。私にとって、皇室は遠く離れた、別世界のお話でした。

 子供の頃、 昭和天皇にも、特に印象はありませんでした。 園遊会の映像がテレビで流れます。見ると、天皇は猫背でなで肩の老人で、 ヨボヨボ歩き、参加者の話を聞いては、「ああ、そう」とばかり答えていて、もう呆けているのかな、と思ったものです。

 今にして思えば、昭和天皇は、激動の時代を生きた歴史的な巨人です。 ご聖断、戦後の全国行脚、そして様々なお言葉には、畏敬の念が起こります。 反面、戦争責任や沖縄の処遇など、その判断への疑念も聞かされ、嫌悪もありました。 とはいえ、行く先々で多くの人たちから敬愛されている様子を見て、 不思議な威厳は感じていました。

 晩年、床に伏してからは、連日その病状、今日は吐血が何CCだのと伝えられ、 各地でスポーツや祭典が自粛ムードに覆われます。 年が明け、新聞に巨大な「崩御」という見慣れぬ文字を見て、むしろ天皇という制度の異様さと古臭さを感じました。

 しばらくテレビは天皇報道ばかりでしたから、レンタルビデオ屋が大盛況でした。

  その後、私が皇室に身近な感じを受けたのは、紀子さんと礼宮(あやのみや)との結婚でした。 紀子さんは健康的で庶民的なお嬢様といった雰囲気で、ハツラツとして可愛らしく、世の男性にも人気が沸き起こります。

 ただ不思議だったのは、彼女を好きでないと言う女性が多いことでした。 当時学校のクラス担任の女史が、授業終りに突然、「紀子さんについてどう思う?」と言い出し、 「私は、あの人の笑顔が大嫌い。ぶりっ子してるけど裏があって、すごーく下品で、ゾッとする。」と吐き捨てるように言いました。

 一つ言っておくと、その先生は若く人気もあり、決して普段、生徒の前で人の悪口を言う人ではなかったのです。 ですからそれにまず驚き、また後日、先生が同じことを言い出し、「みんなはどう思う?」とまで聞いた時、 クラスの幾人かの女子生徒が、「先生、私それよく分かる、嫌な感じよね。」、ウンウンと頷きました。

 当時それを見た私は、紀子さん可愛いから、女性の嫉妬かな、と思っていましたが。

 そして、その数年後に、皇太子が、素晴らしすぎる女性のハートを射止めます。 東大、ハーバード出の才媛で、外務省に入り、世界を股にかけて活躍するバリバリのキャリアウーマン、 小和田雅子さんでした。 華があってクールな美貌があり、スタイルも良くて、これ以上の人がいるのか、と思うほどでした。

 当時知らなかったのですが、皇太子がこの人しかいない、と決めた理由も素晴らしかった。 それは、雅子さんがもつ国際的な教養や経験はもちろん、エリートタイプには珍しい、質素堅実な心や、ストレートで優しい感性だったといいます。

 正直言って、私は、雅子さんが当初から、皇太子に惚れていたとは思いません。 むしろ生理的に好むタイプではなかったかもしれません。 しかし、皇太子と何度も話すうち、その人格の尊さに触れて、心を打たれ、日本の未来のために、皇室という特殊な世界に身を投じてくださったのだと思いました。

 あとは少しずつ、皇太子の思いが雅子さんの心に通じて、愛が育まれれば、と。

 それから5年ほど年月は過ぎて──。

 あれは、1998年頃。友人と映画を見に行った帰りの喫茶店で、珍しく皇室の話が出ました。 「なぜ、天皇や宮内庁は、雅子さんをもっと海外へ行かせないのだ」 「国内の公務ばかりで、変な手振りまで強制されて、表情もこわばって辛そうだ」 「もっと自由な、国際的な、雅子さんの姿が見たかったのに」。 皇室にさほど興味のない私でも、またきっと当時多くの庶民も、同じような違和感を抱いていました。

 もちろん皇太子妃の子作りは重要です。でも、そのためには心身のストレスを減らすことが大事だと思いました。 コウノトリはどこにいるか分からないのだから、年に1度は海外へ行って、羽根を伸ばして国際親善をして、 その方が活き活きと体調も良くなって、妊娠に繋がるのではないか。

 しかし、雅子様は子供を産む機械のように、皇室の檻に閉じ込められたのでした。

 私が、「天皇か皇后の鶴の一声があれば、雅子様の海外公務はもっと増えるはずだ。なぜしないのか」。 そう言うと、友人は、 「いや、そもそも天皇にそんな力はないんじゃない。実際は宮内庁の操り人形みたいなものでさ。」と答えました。 私は「うーん、そうか、結局は役人の力が強いのか。」と唸りました。

 「それでも、天皇が強く言えば…。だって天皇の言葉だよ。いや、もしや天皇か皇后が海外へ行きたくって、皇太子夫妻から海外公務を奪ってるとか。 いや、でも、そんな悪い人にも見えないか。やはり黒幕は宮内庁か…、宮内庁め。うーん、しかし、鶴の一声で何とかなりそうじゃ…」 などと堂々巡りをして、話は尻すぼみに終わったのです。

 今、振り返れば、この会話は、後に繋がる一つの原点といえるもので、 このとき持った、おぼろな違和感は、その後もずっと残り、今に続いているのです。



2015.04.04
著者:知凡

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